アニメの歴史を知ろう!
アニメは日本文化を代表するコンテンツとして世界的に知名度が高く、作品によっては海外での人気や評価が高い作品も存在します。ジャパニメーションという言葉が国際的に認知されていることからも、人気を集める事実をうかがいすることができるほどです。しかし現在に至るまでの歴史や由来となるとあまり知られていないのではないでしょうか。そこでここでは日本文化を代表するアニメの歴史や由来などにつき、大きく寄与したクリエイターに触れながら、御紹介したいと思います。
国産のアニメが初めて製作されたのは、1917年OtenShimokawa(下川凹天)によるものです。フランスや米国の短編作品を参考にして試行錯誤をしながらつくられたもので、サイレント映画時代の当時にあって高く評価されたようです。また漫画家から動画製作の世界に参加した人物では、JunichiKouchi(寺内純一)も上げることが出来ます。漫画家として人気が出てきた大正6年(1917年)に、寺内は当時動画製作に参画しようとしていた小林喜三郎に招聘されて、同人が代表を務める小林商会に入社し、「なまくら刀」を完成するに至ります。
さらに画家として実業家として日本アニメの進展に尽力したSeitaroKitayam(北山誠太郎)も、下川・寺内とともに黎明期に活躍した人物でした。当所は水彩画家でデビューしますが、その後は編集者になり若い画家たちを支援し、後に北山動画製作所を設立するにいたっています。
これ以後第二次世界大戦中は宣伝映画として国策に利用されるなど、戦争の影響を強く受け配線により壊滅的打撃を被りました。戦後復興をへてエンターテインメントとして復活させて現在のジャパニメーションの原型となるコンテンツを作り出したのは、言うまでもなくOsamuTezuka(手塚治虫)です。手塚の代表作である、「鉄腕アトム」は1963年1月1日より放映され驚異的な人気を集めることになり、テレビにおける代表的コンテンツで定着したわけです。しかし鉄腕アトムの製作にあたっては制作費が嵩むことで大赤字が予想されたため、手塚は手を尽くして徹底的な経費削減に努めました。動画製作枚数をへらす、とめ絵を多用する・ストーリー展開を早くするなどの工夫を重ねることで、予算の問題を乗り切ろうとしました。もっともこのような手塚の主砲には批判もあり、現在のアニメ業界の待遇の悪さの原因のひとつに手塚の動画製作手法を指摘する向きもあります。